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こころの糧に

「わたしはある」というもの。          出エジプト記とヨハネ福音から


ここにすべてがある。
人は、あるというお方によってのみ、
「よしとして創られた。」「それは甚だよかった。」
「神に似せて創られた。」
「神によってあがなわれた。」
「神によって永遠の命を与えられた。」
これでよし!
この世は「ある」か「ない」かにあるのみ。
     ひ・と・り・ご・と
                          6月2日生まれのシスターFより

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコ2:17


 プロテスタントの教会の教会学校に通っていた小学校の頃から、好きなみ言葉として、この箇所をあげていました。その時の私が、この言葉をきちんと理解していたとは思えませんが、この言葉を聞く度に感じていた安心感、温かさは、今でも思い出すことができます。今、自分の惨めさ、情けなさに失望して、自分にもイエスにも心を閉ざしてしまいそうになる時、このみ言葉が、わたしを救い出してくれます。    6月3日生まれのシスターHより


イエスは、シモン・ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と言った。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と言った。三度目も「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
                            ヨハネ21章15、16節


 ずいぶん前にどこかで、このみ言葉の「愛」ということについて聞いたことがある。日本語訳では同じ語がつかわれているが、原文では区別されていると。しかし、その時のことは他には何も覚えていない。
 最近ミサの中で、この箇所が朗読された。説教された方は「神の愛で愛することは、人間にはできない。それは無理だ。イエスは三度目には、言葉を変えて問われた」と。イエスに向き合っているペトロの姿が浮かんでくる。私の心は三度目には言葉を変えてペトロに問われたイエスに、強く打たれた。もしペトロと同じように私に問いかけたなら、イエスの限りなくやさしい圧倒的な愛にたじろぎながら、小さな声でペトロと同じように答えるだろうか。
                        5月15日生れのシスターSより


「主が あなたを祝福し、あなたを守られるように。
 主が み顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
 主が み顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」民数記


この聖書のみ言葉は、毎年神の母を祝う1月1日に読まれます。
人々のために祝福を祈るものでありたいとの思いを込めて、
このみ言葉を選びました。
           4月7日生まれのシスターTより


「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:20
「あなたは存在しないかのようにすべてをキリストに委ねなさい。
 そして、キリストは存在しないかのように、
        あらゆることに自分のベストを尽くしなさい。」


キリストがいつも一緒にいてくださる、という思いは、嬉しい時、楽しい時、幸せを感じる時には、
主への感謝になりますし、苦しい時、難しさを感じている時には、励ましとなっています。
   もう一つの言葉は、聖書の言葉ではありませんが、どんな時にもどんなことでも、
   私がイニシャティブをとるのではなく、キリストの手の中にあることを感じさせますし、
   同時に私に委ねられた部分は、一生懸命にしなければ、と感じさせてくれます。
                             4月11日生まれのシスターKより



「私の希望 キリストは復活し、ガリレアに行き 待っておられる。
   共にたたえ 告げ知らせよう 
          主キリストは復活された。
  勝利の王 キリストよ、いつくしみを 私たちに。
                     アーメン、アレルヤ!」
                  典礼聖歌集351番「復活の続唱」から


 主の復活について、四人の福音史家がそれぞれ最後の章で語っていますが、それを簡潔なことばで宣言し、生きと生き歌い上げる「復活の続唱」に、毎年新たな感動を覚えます。これは使徒たちのあかし、母なる教会の信仰の遺産、そして私の信仰のよりどころだと思っています。
 「復活の続唱」は、第二バチカン公会議までは、グレゴリオ聖歌としてのラテン語で世界中のカトリック教会で歌い継がれてきたもので、よみがえられたキリストを祝う教会の豊かな伝統を感じさせる忘れられない聖歌です。 公会議後の刷新で、ラテン語の歌詞を日本語に訳し、美しい曲をつけてくださった典礼委員会の方々、特に高田三郎先生に感謝しています。
「マリアよ、私たちに告げよ。あなたが道で見たことを…」物覚えの悪い私ですが、この「復活の続唱」だけは全部心に刻まれていて、ひとりで味わい、感動し、イエス様への信仰と愛を新たにする復活のシーズンです。              4月16日生まれのシスターNより

 


「渇いている人はだれでも私のところに来て飲みなさい。」
                     ヨハネ7:37

生きている日々の種々に渇きをを反省し、
イエス様の生きた「水」をいただき、
いきいきとよろこびで満たされる。
感謝と信仰の喜びの日々を生きている。
    4月24日生まれのシスターIより


主は彼を荒れた地で、荒れ野のおそろしい孤独の地で実つけ、
身に抱き、世話をされ、ご自分のひとみのように大切にされた。
 巣を守る鷲のように 雛の上に翼を広げる鷲のように
 翼を広げ彼をだきあげ、ご自分のつばさで運んだ。
彼を導いたものは主だけであった。
ほかの神はひとりもいなかった。       (申命記より)


主を悲しませる悪さをいっぱいしてきた。
それでも私は、今主の家にいる。
主が抱き上げ、ここに運んで下さったからこそである。
ありがとうイエスさま。
あなたから離れることがないように・・・
未熟な私の言動でだれかを不利な立場におくことのないように
イエスさまの愛で満たされていたい。
今年最後の若き60代!!
主とともにこの一日を歩みたい。        3月2日生れのシスターKより


マグダラのマリアは弟子たちのところに行って「私は主を見ました」と告げ、
また主から言われたことを伝えた。
           (ヨハネ20:18)

主の復活を体験したマリアに心が躍ります。
      3月10日生まれのシスターMより





エリアは神に会うために山に立っていた。初めに嵐が起きたが、神は嵐の中におられなかった。
次に地震か起きたが、神はそこにもおられなかった。
続いて火が起こったが、神はそこにもおられなかった。
最後に、とてもやさしくかすかな風のそよぎとも、ささやく声とも言えるものが聞こえた。
エリヤはこれを感じると、すぐに顔を覆った。神がおられると分かったので。
                            (列王記上19:11ー13)


神様の声は風のそよぎともささやく声とも言えるような、
とても小さいかすかなやさしい声です。
その声を毎日の生活の中で聞けたらいいのにと思います。
              3月14日生れのシスターJより





主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。
どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。
暁の翼を駆って海のかなたにいきつこうとも あなたはそこにいまし、
御手を持ってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。(詩編139)



主がくださった74年をふり返り、
この詩編の実感と感謝を更に深めました。
どんなときにも、どこにいても、
いつもともにいて助け導いてくださった主に
心から感謝!
     3月15日生れのシスターAより


40年以上前のことになりますが、私が門真共同体にいた時、理由もなく恐怖に襲われました。原因も分からず「この場から逃げ出したい」の一心でした。伊勢の共同体に行かせていただき、夕の祈りのため薄暗い夜道を聖堂に向かって歩いていた時、突然、詩編127のことばが心に繰り返されました。

”神によって建てられるのでなければ
          家を建てる人の骨折りは空しい。
 神によって守られるのでなければ町を守る人の警戒は空しい。”

 このことばが心に浸みこんだとき、それまでの恐怖が嘘のように消え去りました。
あの恐れは何だったんだろう?一生懸命祈っても消えなかった恐怖が、一瞬にして消え去ったのです。
本当に跡形もなく・・・
神のことばは生きていて力がある!本当にそうです。
40年経った今でもあの時の状況は思い出せます。そして、その感動もよみがえります。
私の人生は、主によって守られ支えられている確信は、今も続き生かされています。
神さまに感謝です。                    2月10日生まれのシスターSより

”いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。”
                         テサロニケ5:16ー18


私が望んでいることは、どこにいても喜びを持って生きることです。
場所や周りの方たちが私に幸せを与えるのではなく、私のいのちの目的であるイエス様だけが与えてくださるのです。そのために。いつも祈り、感謝することができるのです。
祈り、感謝、喜びに溢れて最後まで生きていきたいです。
              2月16日生れのシスターMより


「喜んでいること」「祈ること」「感謝すること」この三語は、人が人間になるための必須条件と思っています。そしてこの言葉の前に「いつも」「絶えず」「すべて」という継続性を求める言葉がついています。イエス様の道はいい加減な道ではないことを、この四旬節中に特に肝に銘じ少しでも実行したいと思います。言ったり言わなかったり、したりしなかったりの日々ではなく、真剣に生き、少しでも神様も思いに近づけるものでありたいと思います。
                          2月28日生れのもう一人のシスターMより